No.2
(そとづら)⇒

うちづらがご覧になりたければ 
最後までお付き合いを

イラスト・りく姉提供


も く じ
 寝正月 判定 日韓ワールドカップから 自由二題 一字違い コとバ  なみだのわけ  常識 今年も一年・



寝正月
 今年の元旦は雨。
暮に引いた風邪の為、元旦からの3日間はほとんどベッドの中。
今年は運気が無いのかと思いきや・・そうでも無いようだ。
高島暦によると、今年最高の運気の干支は「亥年」だそうな。
金運・仕事運共に最高!!海外旅行で更に運気もUPと来れば、
「亥年」の私が信じたくなるのも当然。

 この雑記帖の書きはじめの
「見えたよ」で、素晴らしい感性を持った少年達の話しを書いた。
椰子の実取りの猿の調教で有名な
「ソンポーン氏」については、名前だけを雑記帖で紹介した。

 
ソンポーン氏は母国では教育庁(日本の文部省)お墨付きの生きたバイブル的存在だそうだ。
教育者になる為に勉強している学生は、必ず彼の講義を聞きに行くそうだ。
彼の事を初めて知った時は、彼の調教に対する熱意や考え方のほかに、
彼が誇りを持って仕事に打ち込む様になったいきさつに、より興味を持った。
彼が「自分のしている仕事は、本当に正しい事なのか?世の中に必要な仕事なのか?」と、
悩んでいた時、思い余ってある高名な僧に相談に行ったそうだ。
僧は彼の話をひと通り聞いた後、
「この仕事は貴方がやらなくても誰かがやる。ならば、貴方の力で1頭でも多く、
不当な調教を受ける猿たちを救ってやる事のほうが…」と、彼を悟したという。
迷いの取れたソンポーン氏は、前にも増して熱心に仕事に取り組んだそうだ。
その後、教育界にも絶大な影響力を持つ、この高名な僧の推薦により、
ソンポーン氏は生きたバイブルとして、教科書にまで登場する事となる。
そのソンポーン氏が正月番組で紹介されていた。

 
寝正月の3日間は、お決まりの正月番組を極力避けながらのテレビ漬け。
小学生が30人31脚で競うタイムトライアル競技に、中国の少林寺で拳法修行をする、
小学生のチームが参加していた。参加前の練習風景も同時に放映されたが、
映画の世界と全く同じの、聞きしに勝る荒修行。
全国放送だったので、見られた方も多かろうが、安定した走りであっさりと優勝。

 そんな彼らの、初めての日本旅行の楽しみのひとつは、富士山を見る事だったようだ。
東京タワーの展望台に上がった一行は、引率の先生(師匠)の「サァー皆で富士山を
探してごらん。」と言う言葉で一斉に探し始めたが、あいにくの霞状態。
撮影スタッフの、「残念だったね。」の慰めの言葉に、少林寺の小学生の言った答えが憎らしい。
にこにこしながら、たった一言… 
「心で見たよ。」

 寝正月の3日間、テレビで出会った思わぬ二人。
"心で見たよ"の小学生と、ソンポーン氏。
高島暦が言う様に、今年は意外と良い事が…。


                                                    戻る





判定 
 
 
やっぱり、今年は縁起が良かった。(まだ2月だが・・)
WCFO(ワールド・ケーナイン・フリースタイル機構)主催のWorld Canine Freestyle
final 2001 video competition.の結果がWCFOより届いた。
3名と4頭で、4ペア−の参加だったが、なんと1・2・3・4位と上位独占。
得点的にも非常に高い評価での入賞だった。
HPのフリースタイルの項にも紹介しているが、WCFOの規定で、採点は順位を付けることが
目的ではなく、個々の現時点での能力の指針にならなければならないという観点から、
コンペティションの名称や大小に関わらず、一定の基準で採点される。
現在日本ではこの種の競技が行われていないので、我々の関心もおのずと
得点にむいてしまうのだが、今回の得点は、ひよこの我々にとっては、万々歳の出来だ。

 今年最初の世界的な関心事のひとつ、冬季オリンピックも盛況のうちに終わった。
日本勢はメダル2個に終わったが、男女フィギュアの本田と村主の入賞の他、
今まで全く歯が立たなかった、クロカンでの6位入賞など、
沢山の収穫はあったように思われる。
話題は多かったが、そのひとつに採点の不正問題は、フィギュアスケートやショートトラック
などで特に目だった。
世界のトップジャッジが判定を下したのだから、素人の私がとやかく言う問題ではないが、
金メダルから一転失格という、「天国と地獄」を僅か2・3分の内に味わった
韓国の選手が可愛そうでならない。
「あれが失格なら、ショートトラックの競技自体が成り立たない」と、
思ったのは私だけだろうか。

 あるBBSでも五輪の問題などで、話題が盛り上がっていた。
ジャンプ板の長さ変更の問題、発祥国日本の意見をはね付けての、色付き柔道着の導入問題
(そのくせ、フェンシングの競技色は絶対に白)、日本選手が得意な水泳の潜水泳法や
バサロ泳法の禁止等など、今までに数多くの規定が変更になってきた。
柔道着問題は別にしても、これらのほとんどは、どう見ても
日本人(アジア人)に不利になるものばかり。
欧米の皆さんは、どうやらアジア人がトップの座に君臨する事自体、
許せないようだ・・と、まぁ−色々。
日本人のひがみなのか、私のひがみ根性なのか、少なからず私もそう思う。
ただ、見るものの心に感動を与えた競技者には罪はない。
帰国した韓国の選手には、市民から金メダルが送られたようだ。

 フィギュアなどは、どうしても採点に主観が入るので、公正をきする為に
多数のジャッジで採点をするが、これすら、裏工作があったとか無いとかが、後日談だ。
ケーナインフリースタイルも、ほとんどの場合が3名以上のジャッジで採点を行う。
ジャッジペーパーは、必ず参加者に渡されるが、今回は少しだけ気になるのがあった。
参加した4ペア−の一人のジャッジペーパーに記された、コメントのひとつに、
「Jyapanese again・・・」で始まった評価があった。
どうやら、あまり良くない表現の様だが、良いほうに取っておこう。
本場欧州を、スキー板の長さ規定変更で対抗させる程に、
脅威を感じさせた日本ジャンプ勢のように、

 「またか・・うんざりする」ほど、脅威に感じさせた・・と思えば良い。



                                            戻る





2002年 5月

 オビディエンスを、スワレやフセの「家庭犬訓練」としてしか見ていない方のなんと多い事か。
全ての高等訓練が、このオビディエンス(基礎訓練)の出来不出来に掛かっているのは明らかなのに。
「最終点は、出発点にあり」・・だ。
 
「天才は、常に初心者。」   −黒澤 明監督 の雑記帖からー

                                   
           戻る





日韓ワールドカップから 

 
日本代表予選リーグ突破に日本中が沸いた。韓国のベスト4進出にアジアが吠えた。

 今回のワールドカップでは、日本中で私のようなにわかサポーターが代表選手の
素晴らしい気迫あふれるプレーに魅了され、惜しみない声援を送った。
22名の選手が入り乱れ目まぐるしく変わる展開の中、1個のボールを
めぐっての選手間の連携の素晴らしさには目を見張るものがあった。
究極の「アイコンタクト」をそこに見た。

 訓練で何かを教えようとする時に、
エサ等を利用し、目と目が合ったら「スワレ」と声を掛けて下さい・・と言うような
表現をしている本やインストラクターを見かける。
これだと「アイコンタクト」は、何かを教える時の
手段として認識してしまう事になる。

 一流のサッカー選手達が使っている「アイコンタクト」は、次に起こるであろう
事態を予測させたり、教えたりする為の
手段ではなく確認であった。
彼等の「アイコンタクト」は、日々のきびしい練習の中で培われた各パートナーとの
"一体感"、"信頼感" であり、最重要ルーティンである筈だ。
沢山の戦術と言う名のルーティンや個人技も「アイコンタクト」と言う、
最重要ルーティンが確立していなければ、只の「芸」になってしまう。

 彼らはしっかりと前を見据えながら走っていても、
遮蔽下にあるパートナーの次の動きを、見事なまでに予測しパスを出している。
受ける側もそのパスの持つ意味を完全に把握し、次の選手に・・時にはパスを
繰り出した選手にダイレクトに返す。
「アイコンタクト」は目と目が合う以前から始まっていて、
目を合わせる一瞬「アイコンタクト」は、彼らにとって最終確認なのだ。
彼等は常に全身(全心)でコンタクトを取っている。
一緒に観戦していた家族の誰かが「後にも目があるんじゃない?」・・と言った言葉は
あながちハズレでもなさそうだ。
闘っている時の彼等は、全身が目と化しているのだから・・。

 そう、「アイコンタクト」とは、目と目が合う事のみの意味合いでもなければ、
ひとつのルーティンを教える為の
手段でも無い。
共に同じゴールを目指すもの同士長い月日をかけ磨き上げなければならない

最重要ルーティン
であり、最終的にそれは日々的なものにならなければならない。

                                                     戻る         





自由二題 

 
其の一(自由って 何?)

 
「チョットお聞きしたいんですが、何の為に訓練をしているんですか?」
いまにも飛びついて来そうなシェパード犬同様、その中年の女性の目は、
明らかに敵意に満ちていた。
私は訓練の手を休め笑顔で挨拶をし、今している事の説明と中年女性からの
質問の解答を手短に話した。
連れの二人の女性はうなづきながら聞いてくれたが、中年女性は
納得しそうもなく、反論とも思える質問を次から次にして来た。
 
 折角広々とした緑の河川敷(許可の取ってある)で気分良く訓練をしていたのに、
話しの解りそうもない見知らぬ中年女性の為に、要らぬ時間を裂かれて
うんざりしていたのだが、しつけについて、あるいは訓練の中に含まれている
色んな要素に付いて丁寧に説明した。
私の説明をうなづきながら聞いていた連れの二人の女性は
「もう、いいじゃない・・」と言うように、中年女性の服を後から軽く引いた。

 「犬の為の散歩だから、別に引っ張ったっていいんじゃない。自由にさせてあげれば。」

止められると中年女性は、そばにいた愛犬のシェパード同様、余計に突っかかってきた。

 「何度も言いますが、私の考え方を押し付け様などとは毛頭思っていません。
貴方が質問をしてくるから、私の考えを述べているだけです。」

 「それに、私のお客さんには"犬の為の散歩はするな"。
散歩は貴方のストレス解消の為、リフレッシュの為、貴方自身の為にして下さい。
その時愛犬と一緒に行く散歩は楽しいと思うのなら、
愛犬をお供のリッチ?な散歩を楽しんで下さい・・と説明しています。」

「何故なら、私たちは犬に飼われているのではないのですから。」

 「私も犬と散歩をするのが楽しいからしてるんです。それに、
犬に自由な散歩をさせたいんです。」

 「私もそうです。だから自由とは大変な責任を持つ事になるという事も含めて、
犬にもオーナーにも教えています。」

「?・?・?」

 「先ほどから貴方の犬を見ていると、向こうで伏せて待っている私の犬を見て、
遊びたくて、自由になりたくて、終始吠え続けているではありませんか。
私の犬はいつでも自由にさせてあげる準備が出来ています。
一緒に遊ばせてあげませんか?自由にさせてあげませんか?。」
皮肉たっぷりに言い放ち、私は犬を解放した。

 解放された私の犬は、周りの人や犬に目もくれず、私の周りを楽しそうに遊び始めた。
シェパード犬は換毛期で垂れ下がった毛を振り飛ばさんばかりに、狂った様に吠えはじめた。
大人気ないなと思いながらも、更に追い討ちをかけた。

 「さーどうぞ、ご一緒に。これが自由です。」

 倒れそうになる我が身を支えるのがやっとの中年女性に、もはや反論する余裕はなかった。

 3人と1頭の後姿。
振り返りながら頭を下げ帰っていくのは連れのふたりの女性。
反り返り気味にカニ歩きのような格好の中年女性。
心残り気に振り返り、吠えながら帰るシェパード犬の姿は、
「私も自由が欲しい。」
叫んでいるかのように見えた。

                                                    
                                             戻る






自由二題 
 
 
其の二(ドッグラン)

 
「犬にも欧米並みの生活を・・。」
愛犬家の切なる声に
"犬の為の自由な空間"としてのドッグランの検討が、
各地の自治体などで検討に入っているようだ。
私も関係自治体より参考意見を求められたりする。
私はそんな時に必ず付け加える。

 「ドッグランが、自由にさせてやる事の出来ない全ての犬に与えらえてはならない。
その準備が出来ているペア−と、そうでないペア−は区別するべきだ。」・・と。

 今でも不自由を努力で克服し、素晴らしいドッグライフを楽しんでいる
全国の愛犬家と犬達が、

 "犬の為の自由な空間"という名の囲いの中に追いやられる事だけは避けたい。


                                                     戻る 






一字違い 

 
人も犬も誰に教わらずとも、「YES]や「NO]を感じる事が出来るように生まれて来る。
しかしそれは、自分にとって何が「プラス・得」で、何が「マイナス・損」かであって、
相手にとってでは無いと思う。
訓練においては、YESの「誉め・御褒美・遊び」等のプラスイメージに比べ、
NOは「叱る・叩く・ショック」等、マイナスイメージだらけ。
だから我々は「NOで教えるな。誉めて(YESで)教えなさい。」と言う。

 ・・・やはり、違う。
YESがある限り、NOを教えるべきだ。
「NO」を教えて、その「NO]で(を使って)教える事も大切な事だ。

 
「NOで教える。」「NOを教える。」は違う。
どんなに違うかは、ご覧になった方一人一人で考えて欲しい。

 若い頃は、担当犬にひとつでも良い所があると、嬉しくなって
一生懸命訓練に精を出したものだ。
どんな犬でも何とかなったように記憶している。
沢山の犬達を扱って、少しだけ技術とやらが身に付いてくると、ずるい考え方も身に付いて、
ひとつでも悪い所があると、訓練に夢中になれなくなって来る事もある。
「性能が悪い。」等と言って・・。(もちろんこれは私の事です。)
最近は、私以外にも多く見かけるようになった。
訓練性能の良い犬が、簡単に手に入るようになった事も、原因のひとつかも知れない。


 
「やぁー、訓練頑張ってる? あの子どうなった?。」
「あいつでしょう。諦めました。」
理由は色々だ。

「悪癖がある」「持来欲が無い」「遊びに乗って来ない」
「動きが悪い」
等・など、など・・・。

 ひどい人になると、「何々種ならともかく、うちのは何種だから・・」と、
訓練の進まない事を犬種のせいにして、
「だから、やらない。」と言う。
充分な経験を積んで、訓練を熟知した者が、最後に出した結論の

「だから、やらない。」
なら、まだ納得もいく。

 個体や犬種の資質を、浅い経験で解ろう筈が無い。
そんな方には、今からこう言って欲しい。
「だから、やれない。」・・と。
                                                   戻る 






コとバ

 同じ夢や目的を持って人が集まると、そこにひとつの場が出来、社会が生まれる。
これを「場の社会」と言う。
日本人は欧米人に比べ、
「場の社会」を好む民族らしい。
日本人は、その場所・空間の雰囲気とでも言うべきものを安定させるように
行動するような論理
(場の倫理)で動いているのだそうだ。
これに対し、欧米人の
「個の社会」は、、個人の権利に基づき、
主張出来ることはどんどん主張してゆく
(個の論理)で動く社会だそうだ。

 社会があれば、当然のように色々な社会現象が起きる。
権力や利権の争いのようなものから、意見のぶつけ合いのような小さなものまで・・
それは様々。

 こんな時、「場」を大事にする為に「個」を抑えるか、「個」を取って「場」を捨てるか、
・・・うーん、どちらとも言い難い。
ただ日本人も欧米人も、それぞれの論理感に基づいて素晴らしい文化を
築き上げて来たことに違いはない。
個が集まって場が形成される事はよく理解できるが、
面白い事に、場も強烈な個性集団としての個へと変身する事がある。

 今私はテレビを見ながらこれを書いている。
“カメラは見た。同時多発テロ9・11”を・・・。
憎むべきテロと言う敵を媒体に、
アメリカ社会(場)は、テロ撲滅を旗印に
強大な
「個」へと変身して行く。
その趣旨に賛同した日本を含む多くの国々が集まり、テロ撲滅の為の「場」を作り上げていく。
その中身はイラク問題や南北朝鮮問題なども加わり、更に複雑になって行く。
日本はこの「場」の空間で、雰囲気を安定させる為に「個」を捨てるのか、
それとも「個」を主張しつつ「場」を安定させる術を発揮できるのか・・。
日本の政治家の多くは、どっぷりと「場の社会育ち」のような気がする。 

 夏休みが終わるとともに話題から消えていった、アザラシの“タマちゃん騒動”も
ひとつの「場の社会」現象。(※)
しつけ教室も又、初めは同じ目的を持って集まった人達の小さな「場の社会」の筈だ。
私も趣味のひとつとして、プロ野球パリーグのある球団をひいきにしている。
球場で仲間と一緒になってメガホンも振るし、仲間の応援サイトに行っては
時々掲示板などにも参加させて頂いている。
 
 ここにも又、ひいき球団の「優勝」という夢に向かって集まって来る人々の有形無形の
「場の社会」が形成される。
戦術や選手起用などをめぐりHPのBBSやファンオピなどでは色々な意見が交わされる。
論戦も熱を帯びて来ると、時には個人や他球団まで巻き込んだ
攻撃的な発言なども飛び出し脱線する事もある。
最近は考え方もグローバル化し、日本人も欧米化しつつある。
「個」を主張する人が多くなって来たとは言え、趣味の「場の社会」で、
誹謗・中傷・個人攻撃的な発言は、正当な「個」の主張とは思いたくない。
プロの選手やスタッフが、あらん限りの技術や理論を駆使し、「優勝」の夢に向かって
戦い続ける姿に、同じ夢を求めてファンという形で、私はその「場」に参加する。

 
「個」の主張に沿って「場」を選び、「場の社会」に合わせて「個」を考えたい。
少しばかりの「個の論理」は主張しながらも、「場の社会」を大切にしたい。

 「コとバ」を選びたい。


 
私の趣味の場は、「同夢求場」なのだ。



  (※)・・と思ったら、UPした翌日のテレビで横浜の帷子川に現われたとの報道あり。

                                                            戻る 





 なみだのわけ

☆「
もう良いよ、思いっきり泣けよ。」

☆「いいかおまえ達、帰っても決して親に謝るな。
     "ごめんなさい"なんて、絶対に言うな。」

☆「おまえ達の涙は、悔し涙なんかじゃないぞ。」

☆「ありがとう。いい夢見させてもらったよ。」

☆「こらっ、うつむいて泣くな、胸張って泣け。」

 宗像市のグローバルアリーナで行われた、あるゲームの全国大会地区予選で、
最後まで笑顔だったチームは一チームだけ。
敗れ去った小学生達の心には、夏休み返上で猛特訓してきた日々が、
走馬灯の様に駆け巡った事だろう。

 そして、大声あげて指導してきた先生が、
     子供達にかける最後の言葉も様々だった。

 ついでに、
今日は、パリーグファンの私には悔しい日になったけど、
2002年の日本シリーズは、セリーグ読売巨人軍が、4戦全勝の優勝で幕を閉じた。
勝利インタビューでの原監督は目にうっすらと涙を浮かべながら、、
選手達を「野球少年、野球小僧」と称した。

 そして、少年の心を、「たくましく、輝いて見えた。」・・と、付け加えた。

                                                        

                               戻る 





常識

 
何言いよると? そんなもん 当たり前じゃん。」
少々、ぶっきらぼうな返事ではあったが、その言葉がきっかけで、
火が点いた様に怒り出した父の真意を理解するまでには、
相当の時間が かかった事を記憶している。

 「申し訳ありませんが、息子を休ませて頂きます。」
「・・・?」
「・・・いぃえ、そうではないんですが、私の考える所がありまして・・」
「・・??」
「本当に申し訳ありません。今日、自宅でした事については、
必ず報告させて頂きますので・・。」

 学校への電話を切ると、早速父は「お前にとって、"当たり前"とは何か。」と問い始めた。
いきなりそのような事を聞かれても、中学生の私に当たり前の理論や定義などあろう筈が無い。
しばらく経って父は、全ての事が「当たり前」になるまでに、どれ程多くの先人が、
悩み、考え、汗を流し、血を流したか・・を話し始めた。
「あたりまえ・当然・常識」と言われ、時には軽く口をついて出てくる
この言葉の深い意味や重さを、例を上げ言葉を変えて諭してくれた。
反省を込めて書かされた作文を元に、「2年1組」の道徳の時間に、
「当たり前」に付いて考える時間が設けられた事を、懐かしく記憶している。

 父は
「常識を深く考え大切にしろ。」と教えてくれた。
ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんは、地元の知事に差し出された 色紙に

「常識にとらわれるな。」
と記した。
田中耕一さんに限らず、多くの成功者がこの言葉を口にする。
一見相反するように聞こえがちなこの言葉に、 「我が意を得たり」、
「常識など関係ない」とばかりに反応し、常識を軽んじる若い方もいる。

 「常識とは常に成長しているものであり、現時点での基礎である」
と言うのが父の話しである。
常識(基礎)を深く考え大切にしたからこそ、多くの成功者は常識を飛躍的に
成長させる事が出来たのであろう。
田中さんを称える新聞の他面に、高校生の就職難の記事が出ていた。
大きな原因は、「定着率の低さ」と「一般常識の欠如」だそうだ。 

 基礎と言えば、訓練競技においてはZprやCD-1のようなものである。
私は父の教え通り、これらを大切にし熟知して頂くよう、
生徒さんにお願いし指導もしている。
常識基礎)が成長するものであれば、「今日の常識は、明日の非常識」にもつながる。
つまり、基礎が身に付いていなければ、明日の成長は望めないのだ。

 私は思う。
「常識とは先人が培った伝統のようなものであり、
      伝統は守らなければならないが、 とらわれ過ぎてもいけない。」


 11月25日は10年前に亡くなった父の命日。
 父の教えの数々を、懐かしく思い出しながら書いてみました。(合掌)

                                                           戻る 





今年も一年・・

 
12月29日
今年もあと2日を残すのみ。
「雑記帖」のコーナーを設けてから、もう2年目になります。
月に一言位なら何とかなるだろうと、始めた「雑記帖」。
この2年間で書く事の難しさを、嫌と言うほど味わいました。
もう止めようかとも思いましたが、沢山の方からメールなどで、
励ましのお言葉や感想などを頂き、時にはテーマまで、
ご指定頂いたりしての「雑記帖」でした。

 若い時と違い、スクールからあまり出る事も無く平々凡々な
暮らしをしていますと、話題も少なくなって参ります。
他人が見ても明るくなれる話題、幸せに思える話題をと
思うのですが、はたして・・??。

 このコーナーの多くは、生徒さん達からの質問や休憩室での
茶飲み話から始まった話題からの延長がほとんどです。
だから、私にとっては明るく幸せな話題なのです。
何故なら、「一人でも私の力を必要としてくれる人がいる。」と感じる時が、
私が今一番幸せに感じる時だからです。
競技現役を離れた今、沢山の仲間に囲まれて忘年会の席上で、
乾杯の音頭をとる時が、私の唯一の表彰台だと思っています。
今年もまた、皆様のお陰で無事表彰式も終わりました。

 この一年、飽きもせず、田舎者の戯言「雑記帖」に、お付き合い頂いた方々に
感謝致しますと共に、皆様にとって来る年が、
       明るく幸せに満ちた年になる事をお祈りいたします。

                        ーAndyー

       来年も書く事あれば・・・「雑記帖」。

                                                            
                                             戻る