No.3
作品名(そとづら)

イラスト・りく姉提供

も く じ
   願・U  犬になりたい  師?弟??   三枚目の表彰状 

  ドレッシング   両端        イチローとピカソ



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 願

 
1月元旦・近くの神社に初詣。

  どんなにおいしいお店でも、どんなに欲しい物があっても、
 絶対に並ぶ事などしない私だが、今日は我慢した。
 神社下の石段から続く人波に身を任せながら考えた。
 「今年は私欲を捨てて願をかけよう。」
 もともと「願」と「私欲」は別物だが・・・。
 500円玉を勢い良く賽銭箱に投げ込んで、
 「世界が平和でありますように、ホー○スが優勝出来ますように・・」

  石段を降りながら考えた。
 「ホー○ス優勝は、私欲??」
 「しまった!どちらかひとつにしとけば良かった。二つも願い事をするのなら、
 福引代の600円を賽銭に廻しとけば良かった。」
 松賞景品の洗剤を小脇に抱えながら神社を後にした。

  願をかけるのも難しい。
 人の為に願っているようで、人の為に動いているようで
 “結局、私欲の為だった"と言う事が世の中には結構ある。
 私もそうだし、個人的な「願」と「私欲」の穿き違い位ならまだ可愛い。
 これが、「国民の為」「世界平和の為」「愛犬家の為」等という、
 公的な「願い」からの穿き違いだと大変困る。

  年頭に際し、沢山の日本の政治家さんも「国民の為、弱者の為」と称し、
 「願」を掛けたに違いない。
 世界の警察・アメリカのブッシュさんも、
 「Justice & Liberty(正義と自由)の「願い」のもとに、世界の関心を
 イラクに向けようと必死だ。
 我々犬界各組織のリーダー達も「愛犬家の為に・・」と、
 「願い」も新たにお正月を過ごした事だろう。

  ただ、多くの「願」の裏に、「私欲」がちらついているような気がしているのは私だけなのか?。

 「しまった!各界のリーダー達が『願』の掛け違いをしないように、願をかければ良かった。」




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願・U 
  
  
「自分では処分出来んから、お前が処分してくれ」と手渡された物は
 親父の愛用していた煙草セットだった。
 煙草と一緒に、すごく大きな孟宗竹の根っ子で作られた灰皿などは
 裏庭で焚き火と一緒に燃やしたのを記憶している。
 その中に、親父が20代の頃愛用していた、商売用の車のピストンで
 作られた記念(廃車後の)の灰皿が含まれていたのだが、
 それだけはどうしても捨てきれずにしまって置いた。
 後日、兄に使ってくれるように頼んで手渡したように記憶しているが
 今まで思い出す事も無いままに年月は過ぎていた。

  親父からは愛車(3輪車)にまたがった写真を見せられながら、
 その勇姿(3輪車)の自慢話を聞かされていたので、
 親父の思い出の一部を捨てるようで忍びなかったのだ。
 昭和10年代の話だから、3輪自動車その物が珍しかった時代に、
 田舎の道を自家用3輪車に跨って、颯爽と走っていた親父は、
 さぞかしかっこ良かったに違いない。
 ピストンの灰皿を前に、うまそうに煙草をくゆらしながら
 私が生まれる以前の「親父の自慢話?思い出話」を何度も聞かされた。

  その時の親父の年齢に遅れる事3年、平成15年1月末日。
 とうとう私も「喫煙生活」にお別れする決意をした。
 今まで何度も「試みては失敗」の繰り返しだった「禁煙」だが、
 今回はある特別の試みをした。
 禁煙も「楽しい事の為にすると、成功率が高くなる」と聞き、
 ひいき球団の「優勝祈願禁煙」とすることに決めた。

  応援仲間と行くキャンプ地訪問が決まった事が、
 今回の「禁煙」の大きなきっかけになった。
 球団キャンプ地のある高知へは、飛行機で行く事になる。
 早速「機内禁煙」。
 市内観光などまったく無いキャンプ訪問、当たり前のように、終日球場。
 当然、「球場内禁煙」。
 最近は“歩き煙草”も中々出来ない。
 「・・ならば、いっその事」と言うのが事の始まり。
 
  半分、いやそれ以上・・
 「うまく行くはずが無い」と思いながらの敗戦覚悟の戦いに挑んだつもりだが、
 それがなんと、4月に入っても順調に続いている。
 家族にいたっては、「辛抱しすぎると体に毒よ、吸えばいいのに・」等と、
 “勝ち目の無い戦いなら、早く白旗をあげなさい”と言わんばかり。
 ところが、それも良かったようだ。
 何度も挑戦した過去は、「体に悪いでしょ」「止めると言ったじゃない」
 「月にいくら灰にしてるの」と、挫折に対し罵声が返ってきたのに、
 いままで負け続けだった私の戦いに、今回は楽しみながらも期待せず、
 しかし家族として暖かく気楽に応援してくれている。
 私も家族や周りからのプレッシャーなど全く感じずに、不思議なくらい
 平常心でチャレンジ出来ている。
 既に今回の「祈願禁煙」は、100%成功すると確信している。

  3月28日公式戦開幕!。
 我がホー○スは、主砲小久保選手の怪我による「今期出場は絶望」と言う、
 つらいハンディを背負ってのスタートとなった。
 ホー○スファミリーの一員を自称する者にとって、心中穏やかならぬ所だが、
 まずまずのスタートが切れているようだ。
 10戦を終えた時点の城島選手の打率にいたっては、5割5分と驚異の数字。
 これはもしかして・・、願掛け禁煙効果?・・、 優勝いけるかも?・・。
 「いけない、いけない」・・あまり期待しすぎると、罵声を浴びせてしまいそう。
 敗戦覚悟で見ていれば、「やってくれたよ、あいつら・・」と言う事になるのかも。

  と思いながら、またしても欲が出る。
 「禁煙」に金は要らないが、チケット代が掛かってんだぞー。


            
(愛車に跨った若かりし日の親父・控えめに?背景に使って見ました)

                                                  
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犬になりたい  

 
第1章、

  2003年4月7日
 と言えば、もうお分かりだろう。
 そう、先日からテレビなどでも取り上げられ、多いにその日を待ちわびた、
 漫画の中での「アトム誕生」の日だ。

  ヒーローの誕生に「アトムのようになりたい、アトムになりたい」
 と思った少年時代が懐かしい。
 漫画の主人公として「アトム」が誕生したのは昭和26年だから
 ほぼ私と同じ時を共有した事になり、今でも思い入れはひとしおだ。
 あれから半世紀、人々の「アトムになりたい夢」は、多くの科学者を
 世に送り出し、ヒューマノイド(人型)ロボットを含む、ロボット産業の
 世界では、日本を世界一の座へと押し上げた。
 ソニーのロボット事業責任者の天貝佐登史さんも、アトムや鉄人28号に
 あこがれた一人で、彼ら研究者の共通の合言葉は、「アトムを作れ」だそうだ。
 今、「アイボ」に象徴されるヒューマノイドロボットは、2本の足で歩き、
 人の言葉や動きを理解して、簡単な会話まで出来るようになった。
 純真な子供の心は、アトムの勇姿に憧憬したが、
 どうやら、私がアトムに成りたかったのでは無く、アトムが人間になりたかったようだ。


  人間の作り出したものは機械だけでなく、
 時にはDNAの鎖にまで手を加え、生命の神秘にまで介入してきた。

  私の大好きな「馬」の中に、人間に手を加えられた生物の中でも、
 特に劇的変化をとげた"サラブレット種"がいる。
 彼らは、限られた距離をより早く走る事だけの為に、不必要なものはことごとく削ぎ落とされた。
 なんと、百代以上にも及ぶ、人工的な淘汰が繰り返されたのだ。

  動くパーツの質量を小さくし、地面に伝えるエネルギー効率を、
 最大限にまで引き出せるようにする為に、もともと直径で50センチ以上もあった野生馬の足も、
 スネの部分では10センチ以下にまで削がれてしまった。
 あの大きな体と細い足では、自然環境下を自由自在に方向転換しながら走り、
 自らの力で生き延びる事なぞ二度と出来まい。
 また、野生では体温調整器としての効果のある大きな耳も、トラックでは空気抵抗を招き、
 スピード低下の原因にもなると言う理由から、必要最小限の耳になった。
 空気の通路に突出した声帯は、全力疾走時の肺に、充分な酸素を供給するのを邪魔し、
 さらには足の筋肉にも送ることが出来ないと言う理由で、いななく程度の小さな声帯へと改良された。

  その結果、左右のブレに弱い小さな足は、直線と大きな半径のトラックを、
 1マイル/約1分半で走れば良いように手厚く保護され、無くした体温調整器の変わりは、
 厩務員の掛けてくれる馬衣や、厩舎内を常に快適温度に保つ空調設備が務めた。
 また小さな声帯で、仲間を呼び助け合って生きる必要がないように、
 常に厩務員の手厚い加護のもと、飼育管理されている。

  デリケートなレーシングマシーンの様に、華麗で無駄のない肉体を手に入れたサラブレットを、
 競馬ファンは「神々しい」とまで言う。

  人間の限りない欲望は、「神々しい」とまで言わせたサラブレットを生み出したが、
 「神々しいサラブレットの美しさ」は、神の意思ではなく、明らかに人間の意志であり、
 言い換えれば「人々しい??」である。

  生命の無い機械に、生命の息吹にも似た動きや、思考を与える事に成功した人間は、
 一方で、神の要求する進化に逆らってまで、自然界ではもはや自立出来そうにも無い
 動物を作り出してきた事になる。


 
 犬も又、人間に手を加えられた動物の代表選手だ。
 様々な人間側の思考に沿って、何百もの種に進化?を遂げ、多種多様な形で
 生活の中に溶け込んできた。とりわけ人間との生活空間の共有性の高い、
 家庭犬と言われる犬達は、人間社会の習慣に溶け込みやすい性質を重視された結果、
 まるで人間と紛うような行動や習慣まで、身につける犬が現れるようになった。
 
  しかし犬には、いつ人の手を離れても、立派に自立できるだけの、体と心は残しておきたい。
 犬を第二のサラブレットにはしたくない。


   

 第2章、

  「うちの犬は、自分を人間だと思っているようです」
 良く耳にする言葉だが、こんな事を言う飼い主は過保護な方が多い。
 たちが悪いのは、このような方のほとんどは、自分で過保護を認めながらも、
 それを楽しんでいる。
 「犬が人間になる前に、貴方が犬に近づいてあげて下さい、そのほうが・・」
 と、半ばあきれながら説明してると、
 「そうですね、犬を擬人化してはいけませんよね。自分自身を擬犬化しなきゃ。」
 と口だけは達者で、他の事においても耳学問?は素晴らしい。

  時々、プロの書いた教本にも
 「・・社会化の時期を人間の中だけで育った犬は、自分を人間だと思っているので・・・」、
 云々と言う様な事が書かれている事があるが、果たしてそうなのか?。
 ホットな言い回しとして分からぬでもないが、本気でそう思っているとしたら問題だ。
 このような人間的な言い回しが誤解を招き、「擬人化大好き飼い主」を育てる事も多い。

  そこで、「擬人化」や「擬犬化」についても話しておきたい。
 「ひとりごと−言葉について」の章で少しだけ触れたが、
 犬には自己意識が無いと言うのが、動物学上での定説だ。
 「自己意識」の有無は「三段論法的思考・第三者思考」の有無につながる。
 犬達(動物)が進化する過程では、自分が何者であるかを知る必要性は無かったようだ。
 激しい生存競争の中ではむしろ、目の前の者達が何者であるかを知る事の方が、より重要であり、
 その為の鋭い観察力は、生き延びる上での不可欠の力として、身に付けて行ったようだ。

  つまり、「擬態」等と違い、「擬○○化」と言う
思考その物が、人間独自の思考である。
 「犬(相手)の気持ち(心)になって考える」尊い心も、

 
「擬犬化」等の言葉の意味を簡単に理解し、行動に移すと、
 
「擬犬化」そのものが、「擬人(自分)化」の始まりであり、その危険性を大いにはらんでいる。
  
 ・・と言う事を、知っておいて頂きたい。

 
もう一度、話を元に戻そう・・

 「うちの子は、自分を犬だと思っていないようです」
 「うちの子は、自分を人間だと思っているようです」

  その打開策として、「自分が、早く犬にならなきゃ」と思っている貴方。
 心配はご無用です。??・・まだ分かっていないんですか?

 「その通り。」

  貴方の犬は最初っから、自分を犬だとは思っていませんし、ましてや、人間などとも思っていません。
 何故なら自己意識はないんですから。

  それに、もっと喜んで下さい。

  「犬になりたい」等と、けな気な事を思う必要もありません。
 あなたの愛犬は、あなたを一度も人間として見た事はありません。
 ずっと以前から、あなたを2本足の犬だと思っています。
 そう、愛犬の前のあなたは、もう既に犬なのです。

  ただし、悲しい事には、
 "不恰好で、頼りない・・"が付いていますが・・。



     

   ※ 解っているとは思いますが・・
         ー 擬犬化を否定しているのではありません。正しい理解を求めているのです。 ー

    ※ あたり前の事ですが・・
         ー 「擬犬化」とは、愛犬を見つめる時の自分自身の心を知る事ではなく、貴方を見つめる愛犬の心を知る事です。 ー


   ※ 「擬○化」とは、対象を知る事、研究する事から始まります。
         ー 結構たいへんです。 ー

                                                              

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師?弟?? 
「オーイ、何やってんだ!」
「どのように教えるかではなく、どのように考えるかだよ。」
 
    
1) 「出来なかった事を、叱るのではなく、しなかった事を叱れ。」
       「アジリティだってそうだろ!失敗は何度でも許して貰えるが、
       拒否は三度で失格だぞ!」

    2)「確かに、犬を良く観察しながら歩け。良く見て歩けとは言うよ。」
      「しかし、犬を見ながら歩くのではなく、歩きながら犬を見るんだよ。
      あくまでも、お前の主張が最優先されなければならないんだぞ。」

    3)「嫌い??。嫌いな筈ないだろ。」
      「遊びもえさと同じ、遊んでやってるのに、そっぽ向いたら腹を立てろ。
      誰に腹を立てるかは、お前が考えろ。」

    4)「無理に入れようとするなよ。だから、嫌がるようになるんだよ。」
      「ヒールポジションはクレートトレーニングと同じなんだよ。
      つまり、安心できる場所の提供って事。」

    5)「リードは、お前のぬくもりのある手の一部だろ。」
      「ノーリードで何かを教えるのであればそれで良いけど、
      ノーリードの練習をノーリードでするなよ。」


    6)「うごけ、動け 動いたら頭が働くようになるから。」
      「かんがえろ、考えろ 考えたら体が動いてくるから。」
      「分かってきたら、頭を使って動け


 「なにィ〜解らない??、俺も解らなく?なってきたよ。」      戻る



三枚目の表彰状 
  
  
長い事訓練士をしていて、数え切れない位の競技会に出たと言うのに
 我家にはたった二枚の表彰状しかない。
 競技会の表彰状は、その瞬間を表彰して頂いたものだ・・と言う思いがあり、
 現役中は残さない事に決めていた。(もちろんスクール所有犬分のみです)

 新たな気持ちで望む為にも、毎年大晦日にすべて消却してきた。
 それなら何故
枚が?・・
 一枚は、腰を痛めて競技現役を続けられそうに無くなった時の最後の競技会での表彰状だ。
 その年は自分で消却せずにお弟子さんに頼んだのだが、
 「どうしても所長の最後の競技会の表彰状だけは、燃やす事が出来ませんでした」と言って
 何年かして出してきたもので、その心根が本当に嬉しかった。
 
  あとの一枚は
年ほど前、
 ある一頭のゴールデンレトリバー「ゴルト号」の訓練をした時に頂いたものだ。
 発行者は小学五年生のオーナー。
 ゴルト号の卒業の日に頂いたもので、正確には表彰状ではなく「感謝状」と言う事になる。
 オーナーからの感謝状はどんな表彰状よりもうれしい。
 少年が立派な青年へ成長した今も、私の部屋の一番目立つ所にその感謝状は飾ってある。


  ところが先日、そのゴルト号の訃報が舞い込んだ。
 御家族全員の悲しみようは、周りを心配させるほどのものだったようだが、
 とりわけ少年の悲しみようは、慰めようの無い状況だったと聞いた。

 そして後日、
 「ゴルトの四ヶ月間の訓練の日々は、あの子にとって大きな転機の日々になりました」といって、
 その頃に書いたオーナー少年の作文のコピーが、ご両親から届けられた。
 悲しみとともに
もう二度と頂く事は無いと思っていた表彰状を、
 思いがけず頂けた様な気分にもなった。

 
  少年からの三枚目の表彰状を、今回はみなさんにも見て頂きたい気分だ。
 (本人の了解を得ていないのですが・・)

  直方西小学校 6年 ○藤 ○太

 「僕の友だち」

  今から紹介する彼は、僕にとって最高の友人である。
 彼と僕の付き合いは二年になる。
 出あった時の彼の印象は、なんとなくおとなしそうで無口だったので、
 あまり気が合いそうに無いと思い、さほど気にも留めていなかったように記憶している。
 そのせいか、彼も僕を心の隅に置いていただろうが、
 その存在はあまりおおきなものではなかっただろう。
 毎日彼と顔を合わすごとに、気持ちのキャッチボールを少しずつ始めるようになったように思う。
 
  それからしばらくして彼は入学する事が決まった。
 4ヶ月間の授業を受けるのである。
 入学する日が近づくにつれ、だんだんと淋しさが増し、
 僕の心の中にここまで彼が深く入りこんでいる事など、今まで気付かなかった自分がそこにいた。
 彼が入学後、僕にとってつらい毎日になった。
 彼の名を聞くと、目の下に水たまりのような涙がたまる。
 そして卒業の日、彼は立派になって帰ってきた。
 体はたくましく、目はキラキラと、金髪をなびかせて僕に走り寄って来た。
 彼がそばにいると、気が落ち着くし、困っている時すぐになぐさめてくれる。

  友だちにも優しくなった。
 仲良くすることを教えてくれた。
 一緒に遊ぶ楽しさを教えてくれた。
 彼の事が大好きなんだけど、どんな言葉で表現していいかわからなかった。
 自分で自分がいやになったりする時、天気の時も、雨の時も、心の支えだ。
 そのくせ彼は、決して僕をしばりつけたりしない。
 美しく光る彼は、宝石よりもきれいだ。
 彼の僕に対する気持ちもまた同じかもしれない。
 
  本当の友だちでいてくれてありがとう。
 かれと一緒に特別な思い出を作って生きたい。
 そう彼は、ゴールデンレトリバー、二才四ヶ月。
 名は、ゴルト。「金色」という意味だ。
 限りある命の中での全てのめぐり合いに感謝する。


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ドレッシング(気まぐれ写真館から)
   昨今、問題行動を抱えた犬たちのなんと多いことか。
 
話しを聞けば・・、
どう考えても 厳しすぎるとは思えない客ばかり。
どう考えても やさしさが足りぬとは思えない客ばかり。

しかし・・良く聞くと・・、
どう考えても 厳しさが足りない客ばかり。
どう考えても やさしさが過ぎてる客ばかり。

わたしの言う厳しさとは 
間違いを間違いだと主張する 当たり前の行為のことです。
わたしの言うやさしさは 
かいしょの無さに繋がらない 理を得たやさしさなのです。

叱れない人がいます。  そんな人は・・、
「誉めてください」と、言い続けなければいけない人です。

誉め上手な人がいます。そんな人のほとんどは・・、
叱り上手です。

厳しさは 多すぎてはだめです。 ほんのちょっぴりです。
やさしさは 少なすぎてはだめです。 たっぷりです。

やさしさがたっぷり入った 「愛」という名のドレッシングの 
仕上げに入れる香辛料が厳しさです。
使う時は 必ず振って(混ぜて)お使い下さい。
素材の味が引き立ちます。

さぁー 新鮮で最高の素材が見つかりました。
あなた好みのドレッシングをブレンドしてください。


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両端 (気まぐれ写真館から)
   物事には必ず両端がある。
上と下、高いと低い、善と悪、白と黒、YESとNO・・。
数え上げればキリが無い、そしてこれらはその両極端であり、
人間は進化?しながら、その間を無数に区切ってきた。
??・・と、そんな難しい事はどうでも良い。
まずは最低限、
物事には両極端がある事を
知っていなければいけないという事のようです。
「そんな事みんなわかって るー」なんていわないで下さい。
意外とたくさんいるんです。わかってない人。

世界の最高を目指し、
日々戦い続けてきたもの達が集うオリンピックも、とりあえず無事終了した。
一番高い所に立った日本のアスリートは16名。
それに等しい偉業を達成したメダリストの総数は、史上最高の37名。
飛躍的な成果を上げた理由は色々と言われている。
確かな事は・・、
「世界の最高とは何か?」を科学的に分析し、
アスリートの一人一人がそれを肌で感じながら認識していった事にあるそうだ。
???・・  ど〜ん どん 話しがずれていくぞ〜〜。

白と黒の世界、 YESとNOの世界。
犬の世界も色んな表現をされるが、人間の世界ほど物事が複雑に
区切られてはいないようだ。人間社会はシンプル?な犬の世界から見ると
どのように見えているのだろう。ところで白と黒、二つの色と思っていた白黒写真も
ジッと見つめていると、微妙に複雑な色の世界を感じませんか?
犬との付き合いもYESとNOだけで表現しようとすると
YESやNOがこんなにも複雑だったのかと驚かされます。

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 (気まぐれ写真館から)
技術的な「壁」、思考の迷路、
時々やってくる。必ずやってくる。たくさんやってくる。
「迷路は壁に親しむゲーム。壁の存在を感じながら進んで行けば、カベが必ず出口へと導いてくれる」
・・と言った人がいる。
「人生においての壁も、行く手をさえぎる為にあるのではない。
出口へと導いてくれる為にあるのだ」とも言った。

ただそんな時、壁を肌で感じながら、親しみながら・・・、前へと歩けるだろうか。

「人生に無駄はない」 
「無駄と思えるようなことも、どのような困難な試練も、全て必要な事として設定されたもの。
壁は乗り越えられる者にのみ、神が与えた試練」
この言葉を実践して苦難を乗り越え、豊かな人生を送っている方もいる。

そう、そう、本物の迷路ゲームも、
片方の手を壁にあてぜったいに離さずに、壁を感じながら進んだら
必ず、壁が出口へと導いてくれる事を御存知だろうか。

アジリティのスラロームも、初めての犬にとっては、まさしく迷路のようなもの。
ただし、入り口と出口のある単純な障害である事と、壁の存在を教えれば
簡単に覚えてくれる事を、多くのアジリティファンは知っている。

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 (気まぐれ写真館から)
楽しそうにディスクを追う犬がいる。
夢中でアジリティにチャレンジする犬がいる。
そんな愛犬たちに目を細めながら、
「幸せ気分・・」を誇張する愛犬家達がいる。
「絆を感じる」と言う。

「ディスクやアジは大好きだけど、オビは嫌いなんです」と言う。
「だから、オビはあまりやらないんです」・・と言う。

「?・?・??・・」
「それって、何かおかしくない?」

「たしかに、ディスクやアジは楽しいさ、いつもハッピーな気分になれるよ」
「相棒に多少の不満はあるけど、少しくらいは我慢しなきゃ・・」
「だって俺たち・、相棒選ぶ事出来ないしさ」

「絆・??」「ディスクやアジの事??」
「本当は、一緒にいるだけでハッピーな気分になれる相棒が欲しいんだけどさ・・」

こんな犬たちの会話が聞こえてきそうな気がしませんか?

アジリティやディスクは「絆」を強める為に有効だが、
オビディエンスは、それが本物の「絆」であるかを確かめる時に有効である。


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イチローとピカソ (気まぐれ写真館から)
大リーグ史上80年以上も破られる事のなかった大記録が、
小さな日本人によって塗り替えられた。
日本中が歓喜した。
世界中の野球ファンが、歴史の目撃者として感動した。
今やイチロー独特の個性あふれるフォームとして知られる「振りこ打法」も
彼の歴史の中では否定された事もあり、
打撃フォーム改造の憂き目にあった事もあるようだ。
だが、小学生の頃から好きな遊びもせずに、
野球一筋に打ち込んできた彼には、この振り子打法こそが
しっかりした基礎トレーニングの末にたどり着いたパフォーマンスなのだ。
決して「崩れたフォーム」などではない。

私のような凡人には、その良さのほとんどが解らないピカソの絵も、
基礎習得の時代に描いたデッサンなどを見ると、
素晴らしい写実に感動してしまう。
しっかりした基礎の上に成り立つて崩して?いくのは個性である。
その個性を大衆が認めたとき、それは芸術となる。
2004年10月2日、イチローがダイヤモンドの中に258本目の線を描いた日は、
世界中の野球ファンが、イチローをベースボールアーチストとして認めた
記念すべき日になった。

いつも言ってるけど、「崩れた姿勢と、崩した姿勢は違うんですよ」
その意味くらいは解ってくださいね、生徒さん・・。

天才は生まれついてのものと思っていたが、そうでもないようだ。
イチローもピカソも親子鷹だった事の他に、
「あの子ほど遊びもせずに練習した子はいないだろう」・・チチロー
「私ほどデッサンの練習を積んだものはいないだろう」・・ピカソ
・・と、多くの共通点がある

こんな話とは全く無関係ですが、
以前撮った写真をパソコンで遊んでいたら、絵のような写真になってしまいました。
ピカソの目で見るとこんな風に見える事もあるのかな・・。


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